文明の勝利には何ひとつ欠けたものはない。恐怖政治も情動の貧困も。普遍的な不毛も。
砂漠がこれ以上広がることはない。あらゆる場所が砂漠だからである。ただし、それはなおも深化するかもしれない。
明らかなカタストロフを前にして、憤激する者たち、行動する者たち、告発する者たち、そして自己組織化する者たちがいる。
不可視委員会は自己組織化する者たちの側にある。

第一の環「I AM WHAT I AM」

第一の環「I AM WHAT I AM」1

 「I AM WHAT I AM」。これはマーケティングが世界におくる最新のギフトである。いまや広告の進化は最終段階にまで達し、他人と違うように、自分自身であるように、ペプシを飲むようにといった奨励をはるかに凌駕するにいたった。さまざまなコンセプトを打ち出してきた数十年をへて、マーケティングはついに完璧なる同語反復にたどりついたのである。「私=私」。スポーツジムで鏡を前にランニングマシーンのうえを走る彼。愛車スマートで職場から帰る彼女。ふたりが出会うことはあるのだろうか?
 「JE SUIS CE QUE JE SUIS(私が私であること)」。私の体は私のもの、私は私、きみはきみ、そしてうまく行かない。集団的な個人化。生活、仕事、不幸といったあらゆる状況の個別化。広がる分裂病。進行する鬱状態。極小の単位へのパラノイア的な細分化。接触全般のヒステリー化。「私」でありたいと望めば望むほど、むなしさはつのるばかりである。自分を表現するほど自分は枯渇し、自分自身を追い求めれるほど疲労していく。私やきみやわれわれは、この「私」を耐えがたい窓口のようなものだと思っている。われわれは自分自身のセールスマンとなってしまった――この奇妙な商売、最後には切断手術のように感じるはめになる個人化の保証人になること、そして多少なりともとりつくろった不手際とともに、自分自身の破綻まで保証するのである。
 さしあたって私はマネジメントを行なう。自分さがし、私のブログ、私のアパート、くだらない最新流行、恋愛やセックスのゴシップ。これら「私」を維持していくために必要な数々の装置を。「社会」がこれほど完全に抽象化されていなかったとすれば、「社会」が意味するものとは、身を引きずる者たちに、それでも生きていけと差し出される人口器官の総体、さらには、アイデンティティ確立の代償として私が取り結んだ依存関係の総体のことであっただろう。障害者は来たるべき市民権のモデルである。その前兆を示すかのように、これまで障害者を食いものにしてきたアソシエーションが、いまでは障害者のために「生存所得」を要求している。

 いたるところで「何者かであれ」という命令が叫ばれている。その命令によって、この社会を必然のものとする病的な状態が保たれている。強くあれという命令によって弱さが生み出され、弱さが生み出されることで、強くあれという命令が維持されていく。それゆえ、働くことはもちろん愛することさえもすべてがセラピー的な様相を見せているほどである。一日のうちに何度も交わされる「元気?」という挨拶は、病院での検温を想起させずにはおかない。そうした互いの挨拶がこの患者社会を管理し合っているのである。いまや、人づきあいは体を温めるための無数の小さな犬小屋や避難所からできている。とにかく外界の身を切る寒さよりはまし、というわけである。そこではすべてが偽りである。なぜなら、すべては自分が暖をとるための口実でしかないのだから。そこでは皆が寒さをこらえて静かにふるえるばかりで、何事も起こらない。この社会はいずれ、社会を構成するすべての原子が見せかけの治癒を目指して高める緊張感をもってしか維持されなくなるだろう。社会という発電所は、溢れ出さんばかりに貯えられた人びとの大量の涙を動力として稼働しつづけているのである。

 「I AM WHAT I AM」。かつてどんな支配も、かくも非の打ちどころのないスローガンを見出したことはなかった。「私」をほとんど荒廃した状態のままにとどめておくこと、衰弱した状態を慢性化させること。これは、現行秩序を維持するための巧妙な秘策である。弱々しく意気消沈して自己批判から抜け出せない「私」というこのヴァーチャルな主体、本質からして際限なく環境に適応することが可能なこの主体。この主体は、イノベーションに立脚した現行の生産様式、あっという間に古くなるテクノロジー、たえまなく転倒される社会規範、さらにはフレキシビリティの全般化によって要請されたものである。逆説的にも、「私」はきわめて貪欲な消費者でありながらかつてないほど生産的である。ごくささいなプロジェクトにも最大のエネルギーと強欲さで身を投じ、その後、もとの幼生的な状態に戻っていくといった「私」なのである。
 ならば「私というものCE QUE JE SUIS」とは何か。子供の頃から「私」は大量の流れにつらぬかれてきた。その流れにはあらゆるものが含まれている。母乳、匂い、おはなし、物音、愛情、はやし文句、滋養、みぶり、考え、印象、まなざし、歌、食事。「私というもの」とは何か。「私」には、数々の場所、苦しみ、祖先、友人、恋人、出来事、言葉、思い出といったあらゆるものが結びついているが、それらは明らかに私ではない。私を世界に結びつけているすべてのもの、私を構成するすべての絆、私を満たしているすべての力、これらが織りなすものをアイデンティティとしてふりかざせと言う。だがそれらは一個のアイデンティティなどではない。そうではなく、特異でありかつ共有されるもの、生き生きとしたひとつの実存なのである。そこから、ある場所ある瞬間に「私」と名乗るこの存在がたち現れる。われわれが自分に一貫性がないと感じるのは、「私」を恒久的なものとみなす愚かな思い込みのせいであり、われわれを形成しているものに対するほんの少しの配慮が欠けているためである。
 それゆえ上海の摩天楼に「I AM WHAT I AM」というリーボック社の広告キャンペーンが掲げられているのを見ると頭がくらくらする。西洋社会はお気に入りのトロイの木馬よろしく、「私」と世界、個人と集団、愛着と自由のあいだの耐えがたい二律背反をあらゆる場所に進出させている。だが、自由とは愛着心を手放すことではない。自由とは、愛着にもとづいてふるまい、愛着を生きることであり、それを打ち立てては断ち切る実践的な能力のことである。家族が家族として、つまり地獄として存在するのは、われわれを衰弱させる家族というメカニズムを作り変えるのをあきらめた者や、それをどうしたらいいか分からない者にとってのみである。愛着から身を引き離す自由はいつだって自由の形骸でしかなかった。われわれが足かせをとりはらうとき、われわれは力が発揮される対象をも失ってしまうのである。
 したがって「I AM WHAT I AM」とはたんなる嘘でも広告キャンペーンでもない。それは軍事キャンペーンであり、いわば戦場でいっせいに叫ばれるときの声である。人びとのあいだにあって個別化されずに行き交うものすべて、人びとを目に見えないかたちで結びつけ、われわれが完全な悲嘆の状態におかれることを防いでいるものすべて、つまりわれわれの生存を可能にしているものすべてに対して戦争が仕掛けられているのである。そしてこの戦争は、世界中を高速道路や遊園地や新興都市のようなものにしようとする。純然たる退屈が支配し、すみずみまで整備され、いっさいの情熱を奪われた、空虚でよそよそしい空間。そこを通過することができるのは生体登録された身体と車両と理想的な商品のみである。

 フランスが抗不安剤の国、抗鬱剤天国、神経症のメッカにならずして、時間当たりの生産性がヨーロッパでもっとも高い国になることはなかった。病気や疲労や鬱は、治癒しなければいけない何らかの状態を告げる個人的な症候と考えられることがある。その場合、病気や疲労や鬱は、現行秩序を維持し、ばかげた規範に私を順応させ、松葉づえを改良しようとする。そして、私のなかの日和見主義的、順応主義的、生産的な傾向、本来ならばおとなしく断念すべき傾向を選択させる。「変わることができないとだめだよ」というわけである。しかし私の衰弱が事実として受け入れられた場合、仮定的存在としての「私」が解体に向かうこともある。そのとき、私の衰弱は進行中の戦争における抵抗の行為となる。それは叛逆となり、われわれを規範化し、分断しようと企むすべてに対して抵抗のエネルギーを発するようになる。「私」とは、われわれのうちで危機にあるもののことではなく、ひとがわれわれに刻みつけようとする形式にほかならない。限定され、分断され、肩書きによって調査や分類が可能な「私」たち、つまりはコントロール可能な「私」たちにすることが望まれている。だが、われわれは被造物に囲まれた被造物、同胞たちのなかの特異性であり、世界の肉を織りなす生きた肉である。子供のときからくり返し言われてきたこととは逆に、知性とは適応するための能力ではない。それが知性であるならば奴隷の知性である。われわれの不適応や疲労が問題となるのは、われわれを従属させようとする者の見地からのみである。むしろそれらは、前代未聞の共謀のための出発点であり、結節である。そこでわれわれは、この社会が自身の姿として映し出している数々の幻影よりもずっと荒廃した風景を見出すことになるかもしれない。だがその風景は、社会の幻影よりもはるかに多くの人びとが分かち合うことのできる風景である。
 われわれは鬱ではない、ストライキ中なのである。自己マネジメントを拒む者にとって、「鬱」とはある状態ではなく、ひとつの移行、ひとつの訣別、政治的な脱走へと向かう踏み外しにほかならない。そのまま先に行けば、薬剤か警察による和解以外もはやないのだから。この社会が元気のよすぎる子供たちへのリタリンの投与を躊躇せず、人びとを死ぬまで薬漬けにし、三歳児の時点で「行動障害」を見抜くことができるなどと主張するのはまさにそのためである。いたるところでひび割れを起こしているのは仮定された「私」である。


  1. リーボック社の広告キャンペーン。

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